煙草屋の伊藤は恐る恐る鍵を開けて男たちを店内に入れた。
スーツ姿の3人が見渡し、猥雑とした狭苦しい店内に危険が無い事が解ると声を出した。
「木庭さん」
よれたレザージャケットを着た長身の男が歩み出た。
「篤誠会の木庭だ。2、3聞きたい事がある。そこに掛けて楽にしてくれ」
かすれた声に微妙に虚ろな視線が独特の威圧感を与える。
伊藤が唾を飲み込む音が誰の耳にも届く程、店内は静まり返った。
辺りに積み上げたダンボールにぶつかりながら後ずさり腰かける伊藤。
木庭は椅子を手繰り寄せ伊藤の前に静かに腰をおろした。
自分を囲む3人と木庭の顔を見回し状況を掴もうと必死に思考を巡らすと
伊藤は一つの答えに辿りついた……武藤から買い取ったシャブに。
「さっきウチの売人が襲われて1グラムごとパケに入ったシャブを10袋ほどやられた。
末端で約50万の損害だ。気分が悪りぃから俺は誰かにやつあたりしようかと思ってる……」
言い終わると伊藤の顔を見詰めて微笑む木庭……伊藤もひきつった笑いを浮かべる。
「ただしブツを回収出来れば話は別だ。誰も無駄な血を流さずに済む。
そこで単刀直入に聞くが、今晩お前の店にシャブ流した奴はいねぇか?」
慌てて立ち上がる伊藤。
「知らなかったんです。ちょっと待って下さい」
伊藤は壁に埋め込んだ金庫のダイヤルを合せ、
中からシャブを5袋だしてテーブルに置いた。
「2、3時間前に武藤っていうチンピラが持ち込みました」
「そいつ一人か?」
「恐らくつるんでる安西ってのもかんでると思います」
パケをつまみ頷く木庭。
「それでアンタはウチのブツだと知ってたのか?」
「出所については何も……こっちも聞きませんでしたし……」
「幾らで買い取った?」
「……7万です……」
「ずいぶん渋ったね」
木庭が微笑み、合わせて笑顔を見せる伊藤。
連れて来た3人を見回し
「伊藤さん、やり手だよ。お前らも見習え」 木庭は伊藤を持ち上げる。
「20万で買い取ろう」
「は?」
財布からよれた1万円札を出し数える木庭。
20万をテーブルに置き伊藤の前に差し出す。
「ここにあるシャブは俺が20万で買い取る」
「知らなかったとはいえ、もともと篤誠会のブツですし。
お金は受け取れません」
「俺の気が済まねんだ。
やり手の伊藤さんに損させる訳にはいかねぇよ」
戸惑う伊藤は木庭以外の3人に助けを求めるような視線を投げかける。
一人に顎で促され、恐る恐る金に手を置く伊藤。
「納めてくれよ」
伊藤は札を握りしめる。
「じゃぁここからは俺個人と伊藤さんの商談だ」
伊藤の札を握った手から力が抜ける。
「どう言った商談ですか?」
「アンタ、俺から自分の耳買わねぇか?」
「自分の耳?」
思わず耳を触る伊藤。瞬時にナイフをテーブルに突き立てる木庭。
「一見たいした役にたってねぇようだけど、大切だよ耳は。
無くなったら極端に聴力さがるし、第一見た目に良くねぇ」
唾をのむ伊藤……。
「幾らで……売って貰えますか?」
「20万だ」
ヤニで黄色くなった歯を見せ薄笑みを浮かべる木庭。
手を置いていた20万を差し出す伊藤。
「これで……なんとかなりますか?」
「勿論。これはアンタの金だからな。商談成立だ」
20万を握りしめポケットにねじ込み立ち上がる木庭。
木庭の目配せで3人が伊藤を抑え付ける。
髪を掴まれ頬をテーブルに押し付けられる伊藤。
「片耳だけで勘弁してやるよ」 腕まくりをしてナイフを耳にあてる木庭。
「良い耳してんじゃねえか」
「勘弁して下さい」 伊藤は震えた声で哀願する。
「聞こえるうちに良く聞いとけよ。俺に願い事は通用しねぇ。
もう少し気の利いた交渉してみろよ」
伊藤は口を開くが動揺して声が出ない。
「駄目だなコイツ」
耳を引っ張り、付け根にナイフをあてる木庭。
「買い取ります。買い取らせて下さいっ!」
木庭は仲間と目を見合わせる。
「形がいいからな……この耳は30万だ」
「武藤と安西か」
煙草屋から出て来ると木庭が呟く。
「どこの組がケツ持ってるか調べろ!」
木庭はかすれた声を張り上げる。
「それから、そいつらの親族総出でどんくらい金出せるかもな。
追い込みはそれからだ」
パーラメントをくわえる木庭、その中の大柄の方の男が火を点ける。
「篤誠会コケにしたらどうなるか、しっかり教育してやる」
いつもと違う目覚めは時に思考を混乱させる。
9時に鳴るはずの目覚ましが4時35分を指して鳴っている……おかしい。
時計の前に座り少し考えこんだ……違う、鳴ってるの携帯だ。
携帯を手に取るとボブからの着信、最悪の目覚めだ。
迷った挙句に文句も言いたいし出る事にした。
「なんだよこんな時間に」
「眠れないんだよ」
携帯の向こうからくぐもった声が聞こえた。
「道連れにすんなよバカ。
それよりお前、予約してなかったろ、サキの食事会」
「……」
「すぐスイマセンだろ? サキに謝っとけよ」
「あの店、予約受けてないんだ、この時期」
「嘘つくなよ。モリグチさん4名で予約してたぞ。
なんで嘘つくかなぁ」
「忘れてました。ごめんなさい」
「遅っ! ちょっと逆ギレしてるし」
「悩みがあるんだよ。
キャパオーバーしてるんだから勘弁してくれよ」
「お前、自分の事ばっかだなぁ。良くないよそういうとこ」
「相談にのってくれよ堀渕さん。頼むよ~」
なんて奴だ。全く反省してないな。
「解ったよ、何の悩みなんだ?」
「そっち行っていい?」
「来んなよ。電話で良いだろ」
「電話代かかるし、行って良い?」
なんなんだろ、この厚かましさ。そらモテんわ。
それから5分後、ボブは事務所のソファに座わり、
俺はコーヒーを二杯入れていた。見たくねんだよな、コイツのパジャマ姿。
コーヒーをテーブルに置き、俺はソファに深く腰掛けた。
「で? 悩みってなんだよ」
「恋してるんだよ」
「あ、恋の悩みな。恋の悩みは若者を成長させるんだ。悩め悩め」
「なんだよそれ。真剣に聞いてくれないのかよ」
俺は昨日から2箱目が残り少なくなったラークに火を点けた。
こいつといるとどんどん本数が増える。
「どんな悩みか具体的に言ってみろよ」
「その子、今どき珍しい位のすっごく純粋な子でさ。
あんな子はどこ探してもいないよ」
ボブもつられてレイシに火を点ける。
「ところがその子には悪いヒモがついてるんだ」
「ヒモっていうか付き合ってる相手だろ?悪りいってどう悪りんだ?」
「ヒモってだけで十分悪いだろ? だから俺、ちょっと気になって調べたんだ。
そしたらそいつ、ここいらでも結構有名なワルでユスリタカリ専門のチンピラなんだよ」
「そりゃ良くねぇな。てかお前調べたって気持ち悪りぃ事すんなよ」
「好きな子の事は気になるだろ。あんな奴と一緒じゃ絶対不幸になるよ」
「本人がそう言ったのか?」
「そうは言ってないけど……」
「じゃお前が悩む事ねぇだろ。
本人が選んでんだから周りがとやかく言う事じゃねぇよ」
ボブの貧乏ゆすりが少し激しくなった……そして俯いたまま呟く。
「興味本位で言ってる訳じゃないよ。俺は彼女を幸せにしたいんだ」
「その子が望んでんならそれも結構な事だけど今んとこお前の片想いだろ?」
「だから堀渕さんに相談してるんじゃないか。
どうやったら好きになって貰えるのか」
「どんだけ努力しても報われるとは限らねぇのが恋愛だ。
相手にその気がなきゃ始まんねぇよ」
「その気にさせる方法とかないの?」
「のび太かお前は! 人は頭じゃなくて心で好きになるんだ。理屈じゃねぇの」
「堀渕さんがドラえもんだったらな~」
「やかましい。お前、幸せにしたいとかどうとか言ってっけど、結局自分の事しか考えてねぇだろ」
「失敬な! 俺はその子の事考えて……」
「いいかボブ。愛の本質は与える事だ。お前が飽くまでもその子を愛してるって言うなら、一度自分の欲求を切り離して考えてみろ」
「自分の欲求?」
「そう。時間を共有したい。付き合いたい。愛されたい。そういう想いが報われなくても、お前はその子の為に惜しみなく与える事が出来んのか?」
「与えるって何を?」
「気持ち、時間、物質的なもの、相手が求めるならその全てにおいてだよ」
「……出来るよ……」
「若いうちは愛情を性欲やら独占欲やらの執着と勘違いしてる場合が多いんだ。
自分の想いからそう言うモンとっぱらったら愛情の余りの小ささにきっと驚くと思うよ」
「自分の欲求も相手が好きだから湧き上がるもんだろ?切り離すなんて無理だよ」
「愛情は献身、自己愛は執着って姿で現れる。
自分の思いを行動に移す前に必ずどっちか良く考えろ。その思いは愛か自己愛か」
「重いんだよ、堀渕さんは。恋愛が凄く大変な事に思えてくるよ」
「お前、片想いだろ? 片想いはもっと大変だよ。恋愛とは全く違う。
今のお前に出来る事は『相手が快く受け取ってくれるだけの善意を、歓びをもって捧げる事』。自己主張の為じゃなく相手の為の善意をな」
「で、相手が認めてくれなかったら?」
「その恋はそれで終わりだ」
ボブは溜息をついて肩を落とした。
「恋は終わりでもお前の人生はまだまだ続く。勿論次の恋もその先に待ってる。
精一杯人を愛する事が出来りゃ、例え報われなくても人生の意義に触れる貴重な経験になるよ」
「何が人生の意義だよ。おめでたいだけじゃないか……そんなの」
「おめでたいのはお前だよ。人が生まれてきたのは与える為なんだ。
そんで与える事は愛の本質だ。だから人は人を愛する為に生れてきたといえる。
恋愛はその真理を教える最も優秀な教師って訳だ……帰って一人で考えろ。眠いし」
俯いてしばらく考えていたボブはゆっくり立ち上がった。
「納得した訳じゃないけど、今日のところは帰るよ」
「そうしてくれ」
「その子、涼子って言うんだけど、もしかしたら今日ココ来るかもしれない」
「そうか。素直な良い子なんだろ? 大歓迎だよ」
ドアノブに手を掛けたままボブは呟くように言った。
「堀渕さん、馬鹿にしないって約束してくれる?」
「何を?」
「涼ちゃんの仕事……実は風俗で働いてるんだ」
「働いてる人間を俺が馬鹿にする訳ねぇだろ」
「そうだよな、堀渕さんはそうだよな。やっぱ風俗だと……どうかなって思ってさ」
「それ、お前が馬鹿にしてんじゃねぇの?」
「……してないよ……」 ボブは微かな声を絞りだした。
「だったら良い」
「俺なんかが馬鹿に出来る訳ないよ……」
「じゃあなボブ。おやすみ」
俺は飲み残したコーヒーを流しに捨ててカップを水に浸けた。
鍵を掛けに事務所に戻ると、さっきと同じ姿勢でボブが立っていた。
「お前立ったまま寝てんだろ。鍵、閉めんぞ! 帰って寝ろ!」
「俺、自分が情けないよ」
肯定したい衝動を俺は抑えた。
「昨日そのヒモにシメられた、涼ちゃんの前で……。
涼ちゃんが殴られたのに……怖くて俺、何も出来なかったんだ……
ホント情けないよな……」
「情けねぇな確かに。でもそれがそん時のお前なんだから仕方ねぇよ」
ボブの肩は小刻みに震えているように見えた。
「俺はいつまでも自己嫌悪だの自己否定だのに捉われてる奴は信用しねぇ。
過ぎた事は過ぎた事だ。それが死ぬほど嫌なら死ぬ気で自分が変われば良い」
ボブは黙って出て行った。
また俺の悪い癖だ。話してる相手を無意識に追い詰めてしまう。
俺のしている事は抱えきれない程の課題を背負い込ませるだけなのだろうか。
間違いなく今夜のボブは意見より共感を求めていただろうに……。