「やめろっ!」
甲高い声と共に森下は衝撃を受け弾き飛ばされた。
何者かの体当たりで2メートル先まで転がり観葉植物をなぎ倒してとまる。
手に持っていた注射器は粉々に割れて中身の覚醒剤も全て飛び散った。
床に散った破片を目で追うと、四つん這いになった人影がある。
その人影が一瞬森下を顧みて詫びるように頭を下げた。
そして他の連中に向きなおり床に頭を擦り付け土下座をする。
「やめて下さい。お願いします」
「ボブさん……」
涼子の目の前には土下座するボブの姿があった。
「昨日のチビか?」
安西もボブに気付き呆気に取られる。
「おいコラッ!」 声を荒げる木庭。
「うちのシャブとポンプおしゃかじゃねえかよ」
「それは不測の事態であります。勘弁して下さい」
床に這いつくばったまま動かないボブ。
「誰だ? お前」
木庭の問い掛けにボブはそのままの姿勢で震える声を絞り出した。
「就職情報ハッピーワーク。アルバイトのボブっちゅうつまらん男であります」
「聞いた事もねえな。で、そのハッピーなんとかのボブさんが何しに来たんだ?」
顔を上げて涼子を見るボブ。
「涼ちゃんを……」
事務所を見渡し涼子を、そして縛られた安西を見るボブ。
涼子も安西も信じられない面持ちで見詰め返す……。
「何があったか知りませんが、涼ちゃんと……
その安西って男、許して貰えませんか?」
再び床に額を擦り付ける。
「お願いするであります!」
安西はボブの思わぬ行動に完全に言葉を失った。
「ボブさんよ、あんたこの二人とどういう関係なんだ?」
「自分は……友達だと思ってるであります」
「今どき珍しいな」
木庭は他の構成員に安西をまかせて、ボブに向けて歩き出す。
「友情なんてモンがあんのは『走れメロス』の中だけだと思ってた」
土下座したボブの真横にしゃがむ木庭、ボブの髪を掴み顔を上げる。
「友達のためにヤクザの事務所に乗り込むなんて、たいしたモンだ。その根性に免じて……」
木庭は戸惑うボブの眼鏡越しの瞳を覗きこむ。
「なんて甘い展開期待してたんだろ?」
ボブの顔面に頭突きを入れる木庭。
「ウッ!」
鼻を抑えた指の間から血が滴る。
「やめろ木庭!」 叫ぶ安西。
「そいつ関係ねえだろ!」
「こう言う奴ムカついてさ、善人面の化けの皮剥がしたくなんだよ。
あと喋り方が意味無くムカつく」
ボブの髪を掴んだまま引き摺る木庭。
ボブは鼻の激しい痛みの中、昨夜安西と対峙した時のような恐怖感がない事に気付いた。そしてなぜか高校時代の7.5メートルの高飛び込みを思い出していた……前夜からうなされる程怖かった高飛び込み。直前は足の震えが止まらなかった……ところが一度飛び込んだ後は優越感も手伝い慣れるまで何度も何度も飛び込んだ。ただ一つ問題は今回ばかりは怖れが一時的に消えたとしてもいつまで続くか解らない。自分で全く制御できない暴力の前に晒されては……。
涼子の目の前でボブから手をはなす木庭。
「価値のねえ人間の土下座がナンになる?」
ボブの脇腹を蹴り付ける。
呻くボブ。
「やめて下さい!」
戸田に抑え付けられたまま叫ぶ涼子。
木庭は容赦なく更に蹴りつける。
「ウヘッ!」
吐瀉物を撒き散らすボブ。
安西と武藤は思わず目を背け、涼子は力の限り叫ぶ。
「お願いします! やめて下さい!!」
無情にも更にもう一発蹴りつける木庭。
耐えきれず自分の吐瀉物の中に顔を埋めるボブ。
「どうしたリョウコさん、泣いてんのか?」
涙目で木庭を睨み付ける涼子。
「お前等ホント変わってんな。自分より他人の苦痛の方が辛いのか?
ありえねえ、絶対ありえねえ。
お前等のそう言う善人ぶった態度、マジムカつくんだよ。」
肩を掴みボブを仰向けに転がす木庭。
虚ろな目で今にも気を失いそうなボブに話掛ける。
「なあボブさん、あんたなんか関係ねえのにいい迷惑だろ?」
血の混じった吐瀉物が付いた右手を木庭の服になすりつけるボブ。
思わず後ろに飛び退く木庭、反射的にボブの脇腹を蹴る。
蹴られたボブは体を丸めてむせる。
『全く胸糞悪りい』木庭は心で呟いた。
こいつ等の行動は、また忌まわしい性善説を思い起こさせる。
タイガイの奴等は暴力で負荷かけりゃナリフリ構わず命乞い。
言い逃れる為ならどんな嘘でもつくし、例え親でも売り渡す。
良心も尊厳もあったもんじゃねえ。
ところが稀に眠ってた善意を目醒めさせる馬鹿がいる……。
目醒めた善意は次々に反応しあい、連帯を強め……
『悪は究極の孤独だ』と声高に叫ぶ。そのうち油断してりゃ悪人のそれにも訴えかけて改心を詰め寄る……きっと神がプログラムした迷惑なメカニズムだ。
連帯なんて糞喰らえだ。俺は俺の為だけに生きる。俺はその為に枷になる良心や善意を根絶やしにしたんだ。で、今度はお前等の中からも消し去ってよるよ。心より暴力が、神より悪魔が最後に笑うさ……。
「こうしよう」木庭が誰にともなく話しだす。
「俺も気分に任せて痛めつけるのもどうかと思う」
そう言うと安西、武藤、涼子、ボブの顔を見回す。
意識が朦朧としたボブ以外は木庭の表情に注目し、次の言葉を不安と僅かな期待の中で待った……。
「その小僧」 木庭はボブを指差した。「そいつは今回の件には無関係だ」
「涼子もな」
安西が口を挟むが木庭は聞き流す。
「そいつは解放してやろうと思う。どうだ?」
「是非、お願いします」 木庭の思わぬ提案に涼子は安堵の表情を浮かべた。
ボブは起き上がり木庭に訴えた。
「俺はいい。涼ちゃんだけでも解放してくれ」
「あそこにいる3人を俺の好きにして良いって言えば、お前を解放してやる」
薄笑みを浮かべてボブの表情を窺う木庭。
「俺は助けに来たんだ」 ボブのその声はまだ微かに震えている。
「言う訳ねえだろ」
いきなりボブの頬を殴り付ける木庭。思わず目を逸らす涼子。
勢い良く弾き飛ばされたボブは倒れた観葉植物にぶつかって止まった。
「じゃあこれから俺の暴力に耐えろ。お前が最期まで俺に許しを乞わなけりゃ、あの3人は解放してやる」
『最期?最期って?……』ボブは木庭のその言葉で今まで感じた事のない恐怖に襲われた。
構成員が木庭の指図でボブを連れ戻す。
木庭はボブの瞳を覗きこみ、そこに恐怖の色を感じ取った。
『こいつ簡単にオチる』
二人の構成員に両側から支えられたボブ、
その喉を右手で鷲掴みにする木庭。
「木庭! 悪趣味な事やってんじゃねえよ」 安西が叫ぶ。
木庭の右腕にしがみつき、口を開き必死に呼吸するボブ。
その表情を楽しみながら木庭は更に強く喉を締め付ける。
ボブの顔がみるみる赤黒く染まっていく……。
『なんで俺がこんな目に』ボブは心で繰り返していた。
勘弁してくれよ。人生、マシになるどころか終わっちまうじゃねえかよ。
苦しいなぁ。ホント苦しいなぁ……。何一つ俺の思いは報われないまま死んでいくのかなぁ? こんな悪党の手にかかって、涼ちゃんも護れずに……。
堀渕さん、アンタの言うことやっぱ綺麗事だわ。現実世界じゃ通用しない。
皆自分を護る事で精一杯なんだよ……。
参ったって言おうかな。どんな正論でも俺を責めらんないよな……。
「やめてください! お願いします、やめて下さい!」 力の限り叫ぶ涼子。
「聞こえるか? あの声が」 ボブに囁きかける木庭。
今にも意識を失いそうなボブの全身はガタガタと震えだした。
「好きな女の声が死に際のBGMなんてイカしてんじゃん」
「足使えチビ!」 安西が思わず叫んだ。「金的蹴り上げろ!」
「恐怖は全身を鉛に変える。こいつにゃ反撃は無理だ安西。黙って見てろ」
意識が遠のく瞬間にボブの全身から全ての力が抜け……失禁した。
気付いた木庭は慌てて手を放す。
「汚ねえなコイツ! 小便漏らしやがった」
ボブの意識が無くなった事を確認し二人の構成員も手を放した。
自分の小便の中に崩れ落ちるボブ……。
静まり返った事務所の中、倒れた小便まみれのボブは一定の間隔で痙攣を繰り返す。
居合わせた全員が長い時間に感じた一瞬の静寂を、木庭の笑い声が破った。
「お前等の英雄はションベンまみれで気絶したぜ。ザマァねえな」
他の5人の構成員たちも一緒に笑いだす。
「何が可笑しんだよ!」
安西の憤りに任せた叫び声で笑い声が収まった。
続けて唸るように言葉を吐きだす安西。
「確かにそいつは馬鹿だよ。馬鹿だけど臆病者じゃない」
木庭は言い放つ。
「いや、馬鹿で臆病だ」
安西は木庭にというより自分を含めた全員に訴えた。
「臆病者は、自分の背負い込むリスクを怖れて本気で人の為に動く事はない。
俺やアンタみたいに自分の力は自分の為以外に使おうとしない」
木庭は安西に聞き返した。
「俺が臆病者だって?」
「あぁ。ここにいる全員、そいつと涼子以外はどうしょうもないヘタレだ」
「精神論かよ、馬鹿馬鹿しい。そんなもん力で何とでもなるさ。
どんな心構えだろうが弱者が結局は臆病者なんだよ」
「ボブさんは最後まで許しを乞わなかった」
嗚咽の中で涼子が木庭に言った。
「木庭さん、あなたの負けじゃないんですか?」
木庭は腰のシースから再びナイフを抜いた……。
「まだ最期じゃねえ。こいつが臆病者だって事、証明してやるよ」
「やめて下さい! これ以上何をするんですかっ!」
涼子は木庭を煽るような言動をした自分を責めたが、もう遅かった。
木庭は気を失ったボブの眼鏡を外し、床に落とした。
「許しを乞うまで切り刻むんだよ……まずは耳からだ」
ナイフが触れた耳の根元から血が滲む。
次の瞬間に予想される惨状が木庭以外の者の目をそこから逸らした。
「耳無かったら眼鏡掛けれねえだろ」
その状況に不釣り合いな軽い声に木庭の手が止まった。
そして声の主、くわえ煙草の人影がゆっくり事務所に入って来る。
「そいつキャラ変わったら俺が困んだよ。やめてくんねえかな」
西日があたり人影に堀渕の顔が浮かび上がった。
「堀渕さん」 思わず声を漏らす涼子。
「堀渕?」 木庭は立ち上がり眉間に皺をよせた。
「ひとつ言っとくがな、ボブは馬鹿じゃねえぞ。
お前等の言う利口ってのは狡賢い世渡り上手の事かもしんねえが、そんな奴は糞だ」
「なんだテメェは!」
声を荒げた構成員が二人、堀渕に駆け寄る。
「待てっ!」
木庭の声で構成員は足を止めた。
「その人に近付くな……殺されるぞ」
両手をポケットに突っこみ、くわえ煙草のまま堀渕は微動だにしていない。
異様な雰囲気に構成員は思わず青ざめた。
「心から人の為に動ける人間が利口なんだ。
それが唯一、豊かになれる方法だからな。
その為に命落としたり人格貶めたりってのは感心しねえが、俺は嫌いじゃねえ」
堀渕は涼子と目が合い微笑んだ。
涼子の堀渕を見詰め返す目から、大粒の涙が零れた……。
そして堀渕は木庭に向き直る。
「久し振りだな、木庭。5、6年ってとこか」
「くたばったって聞いてましたよ。堀渕さん……」
篤誠会の5人の構成員は勿論、安西と武藤ですらその名には聞き覚えがある。
『剋友会の堀渕』の悪名は木庭のそれすら遥かに凌いでいた。
事務所の空気は張りつめ、誰もが堀渕と木庭のやり取りを固唾を飲んで見護っていた。
「生憎だが俺はすこぶる健康だ。残念だったな」
「残念?」 木庭は鼻で笑う。
「俺は昔とは違げんだ。アンタの事なんか眼中にねえよ」
「そうか……」 堀渕は煙草を捨て、床の上で踏み潰した。
木庭はその動きを目で追う事もなく堀渕の瞳を凝視している。
「そう怯えんなよ木庭。俺も昔とは違うんだ。何もしやしねえよ」
「怯える? 俺が? 勘弁して下さいよ」 パーラメントをくわる木庭。
「俺も今はペーペーじゃねえ。勘違いしてると痛い目みますよ、元剋友会の堀渕さん」
火を点けようとパーラメントに近付けたジッポを持つ木庭の手が激しく震えている。
抑えようとすればする程、震えは激しくなり火を点ける事が出来ない。
左手で手首を掴み震えと格闘している木庭の前に、堀渕が火の点いたジッポを差し出した……
パーラメントの先を焼くと堀渕は手際よくジッポをしまう。
動揺を抑えるために大きく煙を吸い込む木庭。
「だから言ってんだろ。そんなにビビんなって」